価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない?

 
【価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない】
(発声練習)
http://d.hatena.ne.jp/next49/20090222/p2 
 
うわー、ぼこぼこに叩かれそうな(はてなだしDisられそうなと言うべきか?)ことを言い切ったなぁ。
 
教育する側の人間にしか真意が伝わらないような内容を大勢に向けて言い放てば、もちろん字面だけを捕まえて攻撃してくる人たちの目を引いてしまって大変なことになるのは当たり前なのだけど、それでも言うべきと信じたことをはっきり言葉にしたその決断には敬意が持てる。
 
特定の個人に向けた話の形式をとっていながらその実一般論に転化している(結果としてエントリを書いた当人の自己確認となっている)という点については、まぁ記述法としてやや卑怯だなーと思いはするものの、それはそれで別に構わないというのが私のスタンス。
教育をこの後も続けていく立場の者からこのようなメッセージが出たということは、それは去りゆく個人に向けてのものというより、これから教育を続けていく自分自身への戒めとなるのは当たり前だし。
三者の立場からは、その戒めの具体的な内容以外にとやかく言えるところは何もないわけだし。
 



 
もちろん(というのもなんだが)価値判断基準の持ち方やその築き方などについて、このエントリで語られていることと私の考えることとはだいぶ違う。
ていうか、ほとんど正反対かもしれない。私はこのエントリのように、「表現者」という言葉の中に「創造者」や「求道者」のようなニュアンスを込めたままでものごとを考えることはできない。そんなことをすればどうしても感性主体、主観依存の話しかできなくなるし、最終的には人とのコミュニケーションが苦痛になる結末しか待っていないはずだから。
 
けれど、まぁ、そんなことについてわざわざ細かく触れるのもこの場合、無粋というものだろうか。
この場はあくまで、「一人の教育関係者の勇気ある発言に触れて少し嬉しくなった」と言及するに止めておこうと思う。
 
後日改めて、その辺りのことに言及するかも。
 

 
全然後日じゃないけどひとつだけ今のうちに言及しておきたいことを思い出したので、それだけ付け加えておく。
 
今は、価値判断基準を個人で持つことを否定する時代。
正確に言うと、「価値判断基準を極大集団で共有しているということに幻想を持つことで自我を守る」ことが当たり前になっている時代。
 
その当たり前に依って自我を保っている人は、無意識のうちに「個人として価値判断基準を持つ」ことを恐れ、またそういうことが出来ている人に対してコンプレックスを持っている。
なので「背骨を持て」と言われても、反射的に、「それが出来れば最初から苦労はない」などに代表されるテンプレートの言葉で反撃してしまう。
 
もちろん、この「最初から苦労がない」などという言葉が、自分の抱えている問題についてまったく理解していないということを如実に示していたりするわけだ。
「背骨がある」程度のことが、苦労を除けるほど万能の解決策であるなどということはありえない。それはあくまでスタートラインに立つための前提条件であって、問題解決のためのワイルドカードではない。そんなことにすら気づけないほど盲目的に「万能の解決策の存在」を信じようとしているのだから(あるいは自分の直面していない問題を極限まで楽観視できるのだから)、これはもはや狂信と呼んでいいベクトルの思考停止だろう。
自分の理解の外にあるものを全能と思いこむというのは人として当たり前の心の動きであり、本来それを「神」という概念に吸収することで社会レベルの混乱を避けようとしたのが多くの宗教の基本理念だったわけだけど、その宗教を否定したこの国ではそれぞれの人がそれぞれに勝手に神や邪神を創造するから始末に負えない……などという話は本筋から完全に外れているのでここらで止めておく。
 
とにかく、今の若い人間に向かって「自分の背骨を持て」と告げるというのは、おそらくは三十以上の人間が考えているよりも大きな苦痛を与えてしまう行為なのだ……
と、偉そうに書いてはみたものの、これは最近の私自身への戒めでもあったりする。
 

「悪いのは誰?」と尋ねて倫理観を計る

 
【悪いのは誰? - ある無人島漂流の物語】(タケルンバ卿日記)
http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20090116/p2
 
もう語りつくされた話題みたいだけど、別にここは旬の話題を追いかける最先端ダイアリというわけではないので、気にせずに扱ってみる。
 



 
まず、それぞれの登場人物が何人であるか(どのような文化背景を倫理基盤として持つか)についてまったく言及していないあたり、問題を出した人の底意地が悪いか、もしくは単純に日本人が日本人をターゲットにして作った心理テストだからこれでいいのだということになる。
 
どちらにせよ、この設問の中で設定されている「無人島」は、そこで働くべきモラルがどのようなものであるかについて、意図的にぼかす形で紹介されている。
 
なんでか。
それは単純に、この設問が、「解答者個人が持つ倫理観を見る」ための心理テストであり、それ以上でもそれ未満でもないからだ。
 
そもそも善悪というのは背景となる社会が定めるものだ。が、この設問の中ではその背景そのものが曖昧にされている。
それでも敢えて善悪について考えようというのなら、回答者が設問を読み取ったときにかかったバイアスの中から善悪判断基準を引っ張ってくるしかなく、ゆえにその回答の中には、本来無自覚である部分も含めて、回答者の考え方というものが露骨に現れるようになる……と、こういう寸法だ。
 

 
「妻が悪い、たとえ夫を見殺しにしてでも貞操は守るべき」と答える人がどういう倫理観を持っているのかは分かりやすい。女性の貞操、あるいはそれに象徴されるタイプの誇りは、他の何よりも尊く守られるべきものだということだろう。女性側の意思や感情を無視しているような気がして個人的にはまったくといっていいほど共感できないが、そう考える人がいるだろうことは否定できない。
 
「夫が悪い、自分のことを思って妻が自分を犠牲にしたのになぜそれを咎めるんだ」と答える人なら、その真逆に近い。極限状況にあっては人間は個人の集まりとなり、そこでは(それまで社会に保証されていた)夫婦という関係は相対的に力を失う。そこにあって妻の「一人の女性として大切な男性のために妻としての禁忌を敢えて犯す」という選択を肯定しようというのなら、「悪いのは夫」という結論にならざるを得ない。
 
「体を要求した男が悪い」がまぁもっとも一般的な答えになるだろうし、実際それが常識的な考え方というものではあるのだけど、だからこそ逆に「常識が生きている状況での考え方になっている」と見ることもできる。本当に極限状況に身をおいた者のことを考えた時、自分の持っている能力を活かして他人から何かを得ようとするという判断は当然のものであり、なんら咎められるべきものではないのだから。なのでこの回答を返した者は、一周巡って過激になってしまった「『いい人である自分』を守って飢えて死ぬべき」という倫理の持ち主か、あるいは極限状況というものを想像できていないため最も責めやすい人を責めてみただけか、そのどちらかということになるだろうか。
(体の要求というのは生存のために必須の要求ではないし、よほどの事情がない限り船を直すことは一行全体の生還につながることのはずだから、この辺りの設定についてどのような解釈をして回答したのかによってまた話が色々と変わってくるだろうが……そのへんはこの設問の意図の読みにくいところだ)
 
「無責任なことを言った老人が一番悪い」や「最後においしいところだけ持っていった男が一番悪い」という人は、極限状況にあっては人は公平であるべきだという考え方をしている。
老人は「一連の出来事を通して唯一リスクを負わなかった者」であり、男は「一連の出来事を通して唯一得をした者」だ。そして彼らを責める理由があるとしたら、まさにその「唯一」の部分をおいて他にはありえない。
 
「誰も悪くない、強いて言うなら運(か環境)が悪い」と答える人は、極限状況というものを理解してはいるけれど、逆に「充分な(と自分で思える)言い訳があれば倫理観を捨てるのもよし」と心の底では考えているということにもなる。
 
「聞かれていることに興味はないがこの問題はセクハラだ」と答える人は非常に表層的なところにだけ倫理の判断基準があり、また「自分が正義の側に立っている」と確認することだけを目的に他者を悪と設定しようとする傾向があると見られる。言ってみれば「理屈はいりません、善とはすなわち私のことです」という倫理観。ある意味すごい。
 
乱暴な分析なので漏れも多いだろうけど、大枠としてはこんなところか。
 

 
んでもってまぁ、これら全ての回答の間に、優劣はない。もちろん正誤なんてものがあるはずもない。
ただ、この回答を通して、「自分は(orこいつは)実はこんな風に考える人間なんだなぁ」というのをつかむことができればそれでいいという、まぁその程度のものだろう。そもそも心理テストってそういうものだし。
 
そう理解した上で、元エントリについているトラックバックをあれこれ辿っていくと、色々な人の色々な倫理観と、「他人の持つ(自分と違う)倫理に対してどう考えているのか」がハッキリと見えてきて、なかなかに面白い。
それがディスカッションというものの妙味のひとつなんだから、当たり前といえば当たり前なのだけど。
 

 
ちなみに私の答は、「誰も悪くない」に近い。
それぞれの人間が、それぞれの人間の能力・立場・目的にふさわしい形で最善の行動をとった。その一連の出来事を、無関係な周囲の人間が指差して善だの悪だのとレッテル付けをするということ自体に、居心地の悪い傲慢さを感じてしまう。
そしてもちろん、上のほうで私自身が書いている通り、この考え方は「個人の能力・立場・目的にふさわしい最善の行動をとればそれは正当化される」という、場合によっては危険となりうる思想に通じるものだったりする。けど実際、心の奥底でそう考えちゃってるんだから仕方ないと思うんだよなぁ。
 
 
 
いや、できることなら「設問者の意地が悪い」と答えたいんだけどね?
 
 

 
補記。
 
【次の文章はある無人島漂流の物語の一節である。】
(負けまいとする心でしょう!)
http://kd1.blog103.fc2.com/blog-entry-226.html
 
こういう、「外野から善悪どうこう言うより、当人たちの気持ちを理解しようとするのが先じゃないの?」的アプローチは、とても好き。
 
 
 

ブログ文化の発達で「うつ病」は商品になった?

 
【ブログ文化の発達で「うつ病」は商品になった】
http://anond.hatelabo.jp/20090216221825
 

彼らの行為は、今、こうしている間にも病と闘っている多くの人の名誉すらも傷つけている。ネット社会における自らの商品価値を高めるために「精神病患者は他者に攻撃的」という誤解を撒き散らしている。

 
少し、正確ではない。
彼らは、「ネット社会における自らの商品価値を高めるため」に、自身に関わる、あるいは自身の手の届くありとあらゆるものを恣意的に利用する。
そしてむろんその犠牲となるものは精神病に限らない。
彼らは、誰にとっても、本当にどこまでも迷惑な存在なのだ。
 
もっとも、迷惑をかけてでも周りの人に自分を認識してほしいというのが彼らのそもそもの狙い(小学生の悪戯と同じ)なのだから、当たり前といえば当たり前の話ではあるのだけれど。
 
まぁ、そういった連中のブログをあっさりと信じ簡単に誤解を積み重ねていくような人たちのほうにも少なからず問題があるようにも思えるが……そこに責任を求めるのは、少しばかりモヒカンが過ぎるというものなのだろうか。
 

ガチャピン不要説と、思春期

 
ガチャピンはいないほうがいい】
http://anond.hatelabo.jp/20090216010437
 
最後の一文に爆笑。
いやもちろん、そういう展開になるだろうと予想はしていたけど。予定調和がしっかり完成した瞬間のカタルシスっていうものも、やっぱりあるよねと。
 
もののついでと元記事を覗いてみたら、
http://d.hatena.ne.jp/gettoblaster/20090214/
勉強嫌いの子供が「算数なんて大きくなってから何の役にも立たないじゃん!」と叫んでいた。ちょっと違うか。
 



 
補記というか、連想したことをひとつ呟いてみると、元記事を書いた子は、自分の主観というものに自信を持てずに苦しんでいるんだろうなぁと。
 
そもそも思春期というのは、成長にあわせて肥大化する自我をもてあまし、周辺にある世界と自我との間にある摩擦に苦しむ時期であるわけで、だからこそ反抗期になったり中二病にかかったりいじめたりいじめられたりといったことが顕在化する。
で、大抵の人はその経験を通して、自我と周辺世界とのうまいすりあわせ方、生き延び方というのを学んで大人になっていくのだけども(勿論そういった経験から逃げたり目をそらしたりし続けたせいで大人になれない人も大勢いる)。
 
ここで、一生懸命に理屈をこねることで周辺世界を自我に取り込もうとするタイプの子にありがちなのが、世界の恣意的な定義。
具体的には「自分が把握できる」もしくは「絶対的に縁がない」範囲の世界だけを肯定して、「自分に縁があるけど把握できない」範囲の世界を否定する。
理屈の精度や、それを支える情報や資料の量などには激しい個人差があるけれど、ようは「自分の傍にあって自分に優しくないものは全部無くなれ」という考え方。
 
これは、一般的に中二病と呼ばれているものとほぼ同一だ。
「この国に日本語はいらない英語だけあればいい」というのと「自分は魔族の転生でいつか神との戦いに身を投じる」というのは、見た目に差はあれど中身の構図はほぼ同じ。
そしてそれ自体は別に悪いことではない。その思いこみが世界に通用しないことを学び、そういった経験を積み重ねていくことで、人は大人になっていくのだから。
 
英語に徹底的に縁がない人は、英語に夢を見る。
英語が喋れれば何でもできるような気になる。
みんなが英語を喋るようになれば理想郷が来るように思ってしまう(何せ英語にリアリティを感じていないのだからいくらでも妄想は非現実的な方向へ向かえる)。
 
逆に日本語は身近にあるから、そこから自由な妄想は広げられない。
(思春期の子供についての一般論として)いくら日本語を話しても周囲の人は自分のことを分かってくれないという現実だけがそこにあるため、むしろ考えれば考えるほど、憎悪にも似た絶望ばかりが溜まっていく。
 
思春期を乗り越えてきた大人というのは、基本的にこういう心境に対する自分なりの答えを得てきている。この「自分なり」というところがミソで、たいていの場合、それは他の人間には理解のできない、本当に自分ひとりだけの解法ということになってしまうのだけど。
 
だから大人と子供の会話は往々にして噛み合わないし、大人同士の会話だって頻繁にすれ違う。しかし大抵の大人は、すれ違っている会話をどのように展開しコントロールすべきかについてそれぞれのマニューバーを持っているので、そういう時にも自分の行動をとることができるわけだ(それで事態が悪化することもよくあるけど)。
そこでは、理屈を積み重ねたり、相手の理屈を論破したりすることには、建設的な意味はなにもない。ただ相手をやりこめたという自己満足を得たり、何やら否定されたという不満を相手に与えたり、そういう結果だけが生まれる。
 

 
結局何の話をしたいのかって?
まぁ、それはぼやかした形にままにさせといてくださいな。
年寄りの説教を正面からぶつけたいってわけではないんですよ。分かる人に、その人なりの分かり方で何かが伝われば、それで充分ですので。
 

追記

 
今朝方のエントリを書いてから、この話題に関するあちこちのブログやページを見て回った。
 
他の人が自説の中で「頭のいい」を定義するのを見ると反射的に噛みついている人が非常に多いということが気にかかった。
 



 
そういう人たちも「頭がいい」を自認していて、自分でものを考えることが出来て自分なりの「頭がいい」の定義を持つことが出来たから、自分のそれと異なる定義を見ると(自我を守るために)噛みつかずにはいられないということらしい。
 
あるいは、誰かが定義を作ることはそのままイコール唯一解を作ることであり、他の人間が自ら考えることを阻害する、いわば詰め込み教育と同じ弊害である……と考えているパターンも結構多い。
 

 
……まぁ、何というか。
前者も後者もまったく違うことを言っているようでいて、その実は「他者の考えていることを聞いたら自分の意見を放棄しなければならない」という強迫観念に縛られているだけだというのが、なんとも印象的で、かつ興味深い。
 
それが良いとか悪いとかは敢えて言わないことにするけど、そういう生き方、疲れないのかなぁとは心配になる。
 

「勉強ができる=頭がいい?」

 
だいぶ古いエントリだけど。
 
【勉強ができる=頭がいい?】
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806
 
この程度の問いに自分自身の答えが出せていないのに、「頭がいい」を自称するというのも、実に滑稽な話だ。
そういうところがはてな匿名ダイアリーらしいといえば、らしいのだが。
 



 
勉強ができる人間は、総合的な要領がいい。
少なくともその傾向があるとされる。
 
要領のいい人間とは、つまり、求められた結果を、周囲の人間にも理解できる形で出す能力に秀でているということだ。だから教育する側にとっては実に都合がよく、重宝される。
 
なお、要領のいい人の中には、頭のいい人も多い。
ただしそれも一般的な傾向の話であって、絶対の定理ではない(そもそも絶対の定理って言葉自体なんだか頭が悪いな)。
 

 
それに比べれば、単に「頭がいい」ということ自体には、まったくと言っていいほど価値がない。
 
思考力、洞察力、記憶力、判断力、その他もろもろ……その中のどれが秀でているから「頭がいい」という評価につながっているのかについてはケースバイケースだろう。そしてこれらをごちゃ混ぜにしたままで議論を進めるせいで話が無用に混乱するというケースも少なくないし、実際上記エントリから派生した話題はほとんどこの辺りの曖昧さを指摘するものへと流れていっているようだ。
 
で、まぁ、「それだけバラバラにとらえられるような言葉を使ってたんじゃ建設的な話なんてしようがないよね」と結論するのは簡単なのだけど、そうはならない。
誰がどのようなニュアンスで言った「頭がいい」であれ、確実に共通して言えるだろうことが幾つかあるのだ。
そしてそのひとつが、「どのような形であれ、頭がいいというだけでは誰も腹がふくれない」ということだ。
 

 
「頭のいい」人が一人そこにいたとして。
その「いい」頭で何をして、誰を幸せにできて、どういう価値を生み出したのか。重要なのはまさにその一点だ。
 
「馬鹿とハサミは使いよう」という言葉がある。
これはひっくり返してもそのまま意味が通る。
適切な形で使われなければ、天才だろうと秀才だろうと、何の価値もない。
 
例えば学生であれば、いい成績をとって親や教師が喜んでくれるうちは、その「頭の良さ」を活かしていると言っていいだろう。
けれどそのやり方だけで、一生を生きていくことはできない。学生時代を終えて社会へ出た瞬間に、その上出来であるはずの頭の使い道が分からなくなるはずだ。
たいていの人はそこで、次なる頭の活かし方を見つけて、それぞれの生き方へと結びつけていく。
しかしたまに(あるいはよくある話として)、自分の頭の新しい使い方を見つけられずに、「頭が良ければ周りが喜んで褒めてくれるはずじゃなかったのか」というところで立ち止まったままその後の人生を生きていくことになる人もいる。
 
そして、まぁ、大体「頭がいいって何だろう」「頭がいいなんてことに意味はない」「勉強が出来ても人生では役に立たない」なんてことを大声で叫ぶことになるのは、そういう経験を積んできた、「頭がいい学生だった人」なのだろう。
 

 
……まぁ、その頭を使って何もしなかったとしても、「自分は頭がいいんだ」という優越感に浸って自我を守ることだけは出来るだろうけれど……
そんな自分に都合の良いところで思考停止できる程度の思考力ならば、誇れるほど優秀な頭をしているとは言えないのではないだろうか。
 

 
もうちょっとまともに説明を入れて語るべき話題ではあるのだけれど、ちょっとその手間をかけるのが面倒なので、不親切を承知でここらで終わる。
 
要領がいい人であれば、伝えるべき事柄を、うまく文章にして説明するということを、私などよりも的確にかつ短時間でやってのけるのだろう。
しかし私は、このとっちらかった文章を見れば誰にでも分かるように、極めて要領が悪いのだった。
 

ベーシックインカムとか負の所得税とか

 
ベーシックインカムの世界】
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20090211
 
円熟した社会においては全ての人間に労働の義務を持たせる必要はなく、その動機と能力を持つ者のみが自発的に働くことになる……というのはマイナーながらわりと前からある考え方で、上エントリ内にあるベーシックインカムの他にも「負の所得税」のような形で以前から提唱されている。
 
昨今の失業対策が「労働の体裁を整える」に特化している辺りを見ても、単純な経済理論としてはそれほど問題なさそうに見える。
共産主義の発展系などと揶揄されてはいるものの、実際共産主義が生き残れなかった最大の理由はその生産力の乏しさゆえであったわけだから、「今ならばうまく実現できるかも」という夢を、まったく根拠がないと言って蹴り飛ばすことはできないだろう。
 
が、やはり、「労働は義務」という前提を覆すという一点がもたらす様々な変化とそれにともなうトラブルがあまりにリスキーすぎる。
そんな制度が施行されたら、倫理的・感情的に、色んな人が大パニックになるのは確実。そして本来この制度を支える柱であるはずの健全な納税者たちが、おそらくはそれまでとはまるで違う働き方を始めることだろう。
そんな分かりやすいもののみではなく、対応しきれないほど大量の不安要素を抱えた考え方であることには間違いない。やはりこれまでに成功ケースが積まれてきておらず、のみならずそのヴィジョンも作りづらいことが痛い。どうしても現実的な政策に発展しうるとは思えないのだ。
 
良くも悪くも先進的な考え方だとは思うのだけど。