「勉強ができる=頭がいい?」

 
だいぶ古いエントリだけど。
 
【勉強ができる=頭がいい?】
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806
 
この程度の問いに自分自身の答えが出せていないのに、「頭がいい」を自称するというのも、実に滑稽な話だ。
そういうところがはてな匿名ダイアリーらしいといえば、らしいのだが。
 



 
勉強ができる人間は、総合的な要領がいい。
少なくともその傾向があるとされる。
 
要領のいい人間とは、つまり、求められた結果を、周囲の人間にも理解できる形で出す能力に秀でているということだ。だから教育する側にとっては実に都合がよく、重宝される。
 
なお、要領のいい人の中には、頭のいい人も多い。
ただしそれも一般的な傾向の話であって、絶対の定理ではない(そもそも絶対の定理って言葉自体なんだか頭が悪いな)。
 

 
それに比べれば、単に「頭がいい」ということ自体には、まったくと言っていいほど価値がない。
 
思考力、洞察力、記憶力、判断力、その他もろもろ……その中のどれが秀でているから「頭がいい」という評価につながっているのかについてはケースバイケースだろう。そしてこれらをごちゃ混ぜにしたままで議論を進めるせいで話が無用に混乱するというケースも少なくないし、実際上記エントリから派生した話題はほとんどこの辺りの曖昧さを指摘するものへと流れていっているようだ。
 
で、まぁ、「それだけバラバラにとらえられるような言葉を使ってたんじゃ建設的な話なんてしようがないよね」と結論するのは簡単なのだけど、そうはならない。
誰がどのようなニュアンスで言った「頭がいい」であれ、確実に共通して言えるだろうことが幾つかあるのだ。
そしてそのひとつが、「どのような形であれ、頭がいいというだけでは誰も腹がふくれない」ということだ。
 

 
「頭のいい」人が一人そこにいたとして。
その「いい」頭で何をして、誰を幸せにできて、どういう価値を生み出したのか。重要なのはまさにその一点だ。
 
「馬鹿とハサミは使いよう」という言葉がある。
これはひっくり返してもそのまま意味が通る。
適切な形で使われなければ、天才だろうと秀才だろうと、何の価値もない。
 
例えば学生であれば、いい成績をとって親や教師が喜んでくれるうちは、その「頭の良さ」を活かしていると言っていいだろう。
けれどそのやり方だけで、一生を生きていくことはできない。学生時代を終えて社会へ出た瞬間に、その上出来であるはずの頭の使い道が分からなくなるはずだ。
たいていの人はそこで、次なる頭の活かし方を見つけて、それぞれの生き方へと結びつけていく。
しかしたまに(あるいはよくある話として)、自分の頭の新しい使い方を見つけられずに、「頭が良ければ周りが喜んで褒めてくれるはずじゃなかったのか」というところで立ち止まったままその後の人生を生きていくことになる人もいる。
 
そして、まぁ、大体「頭がいいって何だろう」「頭がいいなんてことに意味はない」「勉強が出来ても人生では役に立たない」なんてことを大声で叫ぶことになるのは、そういう経験を積んできた、「頭がいい学生だった人」なのだろう。
 

 
……まぁ、その頭を使って何もしなかったとしても、「自分は頭がいいんだ」という優越感に浸って自我を守ることだけは出来るだろうけれど……
そんな自分に都合の良いところで思考停止できる程度の思考力ならば、誇れるほど優秀な頭をしているとは言えないのではないだろうか。
 

 
もうちょっとまともに説明を入れて語るべき話題ではあるのだけれど、ちょっとその手間をかけるのが面倒なので、不親切を承知でここらで終わる。
 
要領がいい人であれば、伝えるべき事柄を、うまく文章にして説明するということを、私などよりも的確にかつ短時間でやってのけるのだろう。
しかし私は、このとっちらかった文章を見れば誰にでも分かるように、極めて要領が悪いのだった。