ガチャピン不要説と、思春期

 
ガチャピンはいないほうがいい】
http://anond.hatelabo.jp/20090216010437
 
最後の一文に爆笑。
いやもちろん、そういう展開になるだろうと予想はしていたけど。予定調和がしっかり完成した瞬間のカタルシスっていうものも、やっぱりあるよねと。
 
もののついでと元記事を覗いてみたら、
http://d.hatena.ne.jp/gettoblaster/20090214/
勉強嫌いの子供が「算数なんて大きくなってから何の役にも立たないじゃん!」と叫んでいた。ちょっと違うか。
 



 
補記というか、連想したことをひとつ呟いてみると、元記事を書いた子は、自分の主観というものに自信を持てずに苦しんでいるんだろうなぁと。
 
そもそも思春期というのは、成長にあわせて肥大化する自我をもてあまし、周辺にある世界と自我との間にある摩擦に苦しむ時期であるわけで、だからこそ反抗期になったり中二病にかかったりいじめたりいじめられたりといったことが顕在化する。
で、大抵の人はその経験を通して、自我と周辺世界とのうまいすりあわせ方、生き延び方というのを学んで大人になっていくのだけども(勿論そういった経験から逃げたり目をそらしたりし続けたせいで大人になれない人も大勢いる)。
 
ここで、一生懸命に理屈をこねることで周辺世界を自我に取り込もうとするタイプの子にありがちなのが、世界の恣意的な定義。
具体的には「自分が把握できる」もしくは「絶対的に縁がない」範囲の世界だけを肯定して、「自分に縁があるけど把握できない」範囲の世界を否定する。
理屈の精度や、それを支える情報や資料の量などには激しい個人差があるけれど、ようは「自分の傍にあって自分に優しくないものは全部無くなれ」という考え方。
 
これは、一般的に中二病と呼ばれているものとほぼ同一だ。
「この国に日本語はいらない英語だけあればいい」というのと「自分は魔族の転生でいつか神との戦いに身を投じる」というのは、見た目に差はあれど中身の構図はほぼ同じ。
そしてそれ自体は別に悪いことではない。その思いこみが世界に通用しないことを学び、そういった経験を積み重ねていくことで、人は大人になっていくのだから。
 
英語に徹底的に縁がない人は、英語に夢を見る。
英語が喋れれば何でもできるような気になる。
みんなが英語を喋るようになれば理想郷が来るように思ってしまう(何せ英語にリアリティを感じていないのだからいくらでも妄想は非現実的な方向へ向かえる)。
 
逆に日本語は身近にあるから、そこから自由な妄想は広げられない。
(思春期の子供についての一般論として)いくら日本語を話しても周囲の人は自分のことを分かってくれないという現実だけがそこにあるため、むしろ考えれば考えるほど、憎悪にも似た絶望ばかりが溜まっていく。
 
思春期を乗り越えてきた大人というのは、基本的にこういう心境に対する自分なりの答えを得てきている。この「自分なり」というところがミソで、たいていの場合、それは他の人間には理解のできない、本当に自分ひとりだけの解法ということになってしまうのだけど。
 
だから大人と子供の会話は往々にして噛み合わないし、大人同士の会話だって頻繁にすれ違う。しかし大抵の大人は、すれ違っている会話をどのように展開しコントロールすべきかについてそれぞれのマニューバーを持っているので、そういう時にも自分の行動をとることができるわけだ(それで事態が悪化することもよくあるけど)。
そこでは、理屈を積み重ねたり、相手の理屈を論破したりすることには、建設的な意味はなにもない。ただ相手をやりこめたという自己満足を得たり、何やら否定されたという不満を相手に与えたり、そういう結果だけが生まれる。
 

 
結局何の話をしたいのかって?
まぁ、それはぼやかした形にままにさせといてくださいな。
年寄りの説教を正面からぶつけたいってわけではないんですよ。分かる人に、その人なりの分かり方で何かが伝われば、それで充分ですので。