非実在青年?

 
最近噂のこれ、いったい何なんだろう?
 
非実在と言っている時点で「人権を守るため」という理屈はさすがに通用しないし、その程度のことは言いだしている本人も分かっているだろうから、つまり「相手の実在非実在に関わらず、年若い者を相手にエロいことを考えている奴が国内にいるということ自体が気に入らない」という形に直接読み替えてしまっていい……のだろうか。
 
例によってその考え方の是非自体には触れない、というかどうでもいいと思っているのだけど、とりあえず非常識、というか違憲まっしぐらなのは間違いないやなぁ……。
 



 
ネットの若年層が揃ってこれに反発することになるのだろうけれど、そもそも彼らも「どんなヘリクツもみんなで声を大きくすればゴリ押しできる」以外の戦い方を持っていないのだから、同じことを社会の表舞台でできる自動ポルノ排斥派相手に勝ち目があるはずがないわけで。
 
元アングラ系エロVS規制派の戦いもだいぶ長いこと続いてきたけれど、両者ともに手が煮詰まってきたいま、そろそろ何らかの形で大きな展開が見えてもおかしくないだろう。
 

 
個人的には……ロリとかああいう背徳系のエロメディアというのは、規制されながらひっそりアンダーグラウンドで取引されているものというイメージのほうがしっくりくる世代の人間なので、「ここで規制がまかり通ってしまって禁酒法時代が訪れるのも混迷の政権らしいかもなあ」などと無責任なことを考えていたりもする。
 
今の日本の政治がどこをどう迷走したところで、今さら驚く気にはなれない。そういう意味では、戦後稀に見るレベルで「政府が信頼されている」時代だと言えるのかもしれない。
 

「言いたいことを言いたいときに言っただけなのに、何で色々文句を言われなきゃいけないんだ」

 
「言いたいことを言いたいときに言っただけなのに、何で色々文句を言われなきゃいけないんだ」
 
古くは匿名掲示板が育み、近年はニコニコ動画や各種ブログサービスにてよく繁殖してきていた不思議思想。
基本的には若年層を中心に広がるが、周囲に持ち上げられる形で衆目を集めのし上がったブログなどでは年齢帯に関係なく発生することもある。
 
「言いたいことを言いたいときに言える」は、匿名掲示板やニコニコ動画のコメントシステムなどの根幹にある要素である。本来それは「人は言いたいことを言いたい時には言えない」現実により生じるストレスを緩和するために打ち出されたエンターテイメントフィールドだ。
しかしその場所に耽溺するあまり(あるいは人格形成期をその場所で過ごしてしまったため)発言の自由に慣れきってしまった人はTPOという概念が存在することを忘れてしまうか、あるいはそれが存在することを学ぶ機会を得られないまま長じてしまう。
近年のネット周辺文化は「思春期のストレスに麻酔をかける」ことをコンセプトにして発展を続けており、特にコミュニケーション関連のストレスは最優先の麻酔対象とされている。そして今のところこの方向性が変わるような気配は一切ないため、この手のコミュニケーション問題およびそれを抱えた人間の数は延々と増え続けることになると思われる。
 

かつて妥当とされて、今になって愚策とされる政策

 
【子供たちを不幸にしていないか、と考えること】
http://blogs.itmedia.co.jp/akihito/2007/08/post_e2f0.html
 

つまり過去において選択された「産児制限」という政策によって、極端に人口の多い世代(山)と少ない世代(谷)が生まれてしまい、現在の「急速な高齢化」という問題につながったわけですね。当時はその政策が妥当とされていたのですから、過去の人々を責めるわけにはいきません。しかし、良かれと思って選択された行動でも、将来に大きなインパクトを与える結果になるという点については、十分に認識される必要があるのではないでしょうか。

 
 
 
 
ところで、ゆとり教育という政策がありましてですね。
これは施行当時、子供たちの(以下長文削除)
 
 
 
 

「面白いもの」という神学

 
【成功出来ないのは、成功したと思えないから。】
http://www.asks.jp/users/hiro/61348.html
 
エントリの言っていること:
ドラクエ面白かった」
「つまらないって言ってる人は『ドラクエ9はつまらない』っていう前提を抱えて遊んでたりしてない? それじゃ楽しめるはずのものも楽しめないだろうに」
 
エントリの読み取られ方(の一部):
「ニコニコ大人気! 俺すげえ!」
「質が悪くても成功と言ってもらえれば成功なのさ」
「お金儲けを考えていたら成功できません」
 
……なにこれ。
 



 
まぁ、それはいいとして。
 

 
ドラクエに限らず、「面白い」とか「質が良い」という言葉に神学的なものを見いだしている人たちは実在する、というか非常に数が多い。
 
世の中には「面白い・質がよい」モノや考え方などが存在し、それは万人に価値を認められるべきもので、逆にそれに価値を見いださない人は異常である(ここで言う“万人”の外側のカテゴリにおかれる)というのがその思想だ。
「こんなに面白いのに何で人気がない/売れない」とか「面白くないのになぜ人気がある/売れる」とか、ネット上に限らずどこででも聞くような言葉だが、これは「うちの神は絶対的に正しいのになぜ他の連中は別の神を崇めてるんだ」「あんなのどう考えても邪神なのになぜあいつらはそいつらを信仰しているんだ」という言葉と何も変わらない。
 
「面白い」は、それを言った個人が持つモノなり考え方なりから得た、あくまでも個人所有の精神的な資産だ。
それを、まるでモノに付随する社会的な属性のように扱おうというのだから、もちろん歪みも出てくるというものだ。
 

 
みな忘れがちなことだが、「面白い」はあくまで主観で、「質が良い」は結果論なのだ。
どちらも、ものごとに付加された絶対の属性として会話に用いていいようなものではない。
 
主観は感性の近しいものとは共有できるだろうが、誰とでも共有できると決めつければ戦争を招く。
そこから一段階進んだ、「自分と近い立場の者なら共有できるに違いない」という決めつけもまた、別の角度から戦争の元になる。例えば「(全ての)若者は楽しめるだろうが(全ての)おっさん・おばさんには受け入れられないモノだ」というような言葉。若者という自分から疎遠な存在を話題から切り離すことで見かけ上その主観を尊重しようとしているのだろうが、自分と同年代の者であれば全員が自分の主観に同意するという決めつけが含まれていることに違いない。
 
結果論は過去の経験として次の参考にすることはできるだろうが、見誤ればただ後付けで他者を攻撃するための便利ワードとなりはてる。
例えば、「あのサービスは質が悪いから失敗するね」という言葉に、「サービスが失敗する」と推測するに足るような具体的な根拠は一切含まれていない。ただ「自分の認めないものは失敗してほしい」「自分が認めなかったという主観的な判断を万人に訴えかけられる客観的な言葉に置き換えたい」という思考が、「質」という使い勝手の良い言葉に飛びついただけだ。
 
そういったものに対する無知と誤解は、他の多くの無知と誤解と同じように、様々な争いのタネとなっている。
そもそも争いというものはその大半が似たようなものなので、それを「無用な争い」とまで切って捨ててよいのかについては微妙なところだが。
 

 
まぁ、こんな理屈は実はどうでもよくて、私の言いたいことはもっとシンプルなひと言だけだったりするのでした。
 
 
 
ドラクエ9面白いです。
 
 
 
 
 

「一つの思い出」なら許される話

 
【「『サンタフェ』を廃棄しろ」?〜誤解を排し正確な児童ポルノ規制の議論を】
http://www.hanashiyasuhiro.com/modules/news/article.php?storyid=194
 
あれ?
この規制って、児童の人権を守るのが目的じゃなかったの?
 
「自己の性的好奇心を満たすため」に作品を所持するのが犯罪ってことは、有罪と無罪を分ける基準は、所持する人間の欲望のあり方にこそあるということ。
そこには、当の被写体の人権とかは、まったく関係がない。
 
あ、もしかして、私がこの問題を最初から読み違えてた?
「年若い者に対して劣情を持つこと」自体を規制するっていう話だったの?
だとしたら、『サンタフェ』がどうとかジャニーズがどうとかいう問題の前に、普通に思想統制として責められるべき話に流れておかしくない気がするのだけれど。
 



 
つーか『サンタフェ』なんて、まさに親の意志で強引に(人権を無視して)脱がされた子供の写真集で、あきらかに性的な目的で購入する客がほとんどであったわけだ。
上コラムで主張されるような「あいまいではない具体的な判断基準」が本当に機能しているなら、一発アウトを逃れられる理由がない。現在形の「単純所持」を咎められるんだから不遡及の原則は適用されないわけだし(この理屈自体の正当性についてはさておく)。
 
ジャニーズだって同じ。ああいうパフォーマンスをとることで女性ファンの興奮を誘えるという商業的な(大人の打算による)指示を、若者自身の裁量で受け入れて、ステージの上で実行しているに過ぎない。
それを規制の外に外しておいて、「男性ファンの興奮を誘う商業的なパフォーマンス」は攻撃するというのは、いったいどういうことか。
 
しかもその理由として出てくる言葉が「一つの思い出」。
 
裸を晒しても「これは思い出です」と言い張れば問題ないということか。
それとも、それが思い出であるか否かは、裁判所が判断するということか。
その「明確な基準」ってのは結局何なのか。
「思い出」というものは、当人が主観で持つものではないのか。
これからは、公正なる正義であるところの裁判所に「あいつのそれは思い出だが、お前のそれは思い出じゃない」と言われたりするのか。それが「児童の人権が守られている」ということなのか。
 
……もう、何が何だか分からない。
 
できるだけ邪推や揚げ足取りはせずに読もうとしてはみたけれど、そもそもコラム全体を通してごまかしの言葉が並びすぎていて、何が言いたいのかすら見えてこない。
東京新聞や週刊ゲンダイの決めつけ記事に対して反論したかっただけだとしても、掲げる理屈があまりにお粗末だ。決めつけられていたという「全規制」の理屈のほうが、まだ筋が通っていて理性的だとすら思えてしまう。
 

 
結局、上コラムでの発言に限らず今回の件に関しては全体的に、それぞれの政治家が「それを規制したときに自分に増える敵の数」だけで善し悪しを判断しているようにしか見えない。
守られる権利とか表現の自由がどうとか政治的なコンセプトとか、そういったものはまったくなし。最初から最後まで完璧に打算のみ。
 
もしかしたら政治家当人たちにその意識はないのかもしれない。
けれど、結局法律や条文のひとつひとつが現場に及ぼす影響に対して想像力が及んでいない人の発言は、唯一当人の想像力の内側であろう「保身」の概念を除いて、現実味を帯びない。
おかげで周りの人間には空々しくしか聞こえず、そういう結果にならざるを得ない……とか、そんなことをすら考える。
 

 
別にこの件でどこかの政党を責めたり「規制はおかしい」などと騒ぐ気はないけれど、こういう政治の行われ方が当然のようにまかりとおっているという現状に対しては、素直に「怖い」と思う。