「面白いもの」という神学

 
【成功出来ないのは、成功したと思えないから。】
http://www.asks.jp/users/hiro/61348.html
 
エントリの言っていること:
ドラクエ面白かった」
「つまらないって言ってる人は『ドラクエ9はつまらない』っていう前提を抱えて遊んでたりしてない? それじゃ楽しめるはずのものも楽しめないだろうに」
 
エントリの読み取られ方(の一部):
「ニコニコ大人気! 俺すげえ!」
「質が悪くても成功と言ってもらえれば成功なのさ」
「お金儲けを考えていたら成功できません」
 
……なにこれ。
 



 
まぁ、それはいいとして。
 

 
ドラクエに限らず、「面白い」とか「質が良い」という言葉に神学的なものを見いだしている人たちは実在する、というか非常に数が多い。
 
世の中には「面白い・質がよい」モノや考え方などが存在し、それは万人に価値を認められるべきもので、逆にそれに価値を見いださない人は異常である(ここで言う“万人”の外側のカテゴリにおかれる)というのがその思想だ。
「こんなに面白いのに何で人気がない/売れない」とか「面白くないのになぜ人気がある/売れる」とか、ネット上に限らずどこででも聞くような言葉だが、これは「うちの神は絶対的に正しいのになぜ他の連中は別の神を崇めてるんだ」「あんなのどう考えても邪神なのになぜあいつらはそいつらを信仰しているんだ」という言葉と何も変わらない。
 
「面白い」は、それを言った個人が持つモノなり考え方なりから得た、あくまでも個人所有の精神的な資産だ。
それを、まるでモノに付随する社会的な属性のように扱おうというのだから、もちろん歪みも出てくるというものだ。
 

 
みな忘れがちなことだが、「面白い」はあくまで主観で、「質が良い」は結果論なのだ。
どちらも、ものごとに付加された絶対の属性として会話に用いていいようなものではない。
 
主観は感性の近しいものとは共有できるだろうが、誰とでも共有できると決めつければ戦争を招く。
そこから一段階進んだ、「自分と近い立場の者なら共有できるに違いない」という決めつけもまた、別の角度から戦争の元になる。例えば「(全ての)若者は楽しめるだろうが(全ての)おっさん・おばさんには受け入れられないモノだ」というような言葉。若者という自分から疎遠な存在を話題から切り離すことで見かけ上その主観を尊重しようとしているのだろうが、自分と同年代の者であれば全員が自分の主観に同意するという決めつけが含まれていることに違いない。
 
結果論は過去の経験として次の参考にすることはできるだろうが、見誤ればただ後付けで他者を攻撃するための便利ワードとなりはてる。
例えば、「あのサービスは質が悪いから失敗するね」という言葉に、「サービスが失敗する」と推測するに足るような具体的な根拠は一切含まれていない。ただ「自分の認めないものは失敗してほしい」「自分が認めなかったという主観的な判断を万人に訴えかけられる客観的な言葉に置き換えたい」という思考が、「質」という使い勝手の良い言葉に飛びついただけだ。
 
そういったものに対する無知と誤解は、他の多くの無知と誤解と同じように、様々な争いのタネとなっている。
そもそも争いというものはその大半が似たようなものなので、それを「無用な争い」とまで切って捨ててよいのかについては微妙なところだが。
 

 
まぁ、こんな理屈は実はどうでもよくて、私の言いたいことはもっとシンプルなひと言だけだったりするのでした。
 
 
 
ドラクエ9面白いです。