大学生の扱いは特にややこしいという話とか

 
【学生が自分の主張を述べにくくなる心理について】
(発声練習)
http://d.hatena.ne.jp/next49/20090227/p1 
 
うわ、これは凄い。
何が凄いって、これだけの数のトラックバックにしっかり目を通し、なおかつ自分のエントリに必要な部分(≠引用元エントリの要点)を淡々と書き出しているところ。
自説と違うものに触れた時に感情で噛みつくのが当たり前であるコミュニティの内側で、こういう風に自説を客観的に扱っている(客観的に「見ている」というのとは違う)というのは、地味ながら敬意に値する姿勢だと思う。
 
しかし、前のエントリのタイトルが「表現者にはなれない」なんてえらく一般化されたものであったのに対して、今回はいきなり「学生が自分の主張を〜」と限定された局面のものに切り替わっていて、とても同じ話題に関するものだとは思えないなぁ。
トラックバックなりコメントなりで「特殊な事例を無理矢理一般化しすぎ」と指摘を受けたからなんだろうけど、いきなり「今の話は全部ナシにして私個人の体験の話だけをしよう」と言われたような気がして、複雑。
 



 
で。
前エントリで「また後日」と書いていた背骨話について書こうかなと思ったのだけど、なんだか元エントリのほうに色んな意見が出そろっている上わりかし丁寧に整理されているので、ほとんどのことについては「敢えて書くまでもないかなぁ」と思えてきた。
 
なので、元エントリをネタにしているふりをしたまま、直接は関係のない話なんかもつらつら書いていこうかなと思う。
 

 
表現者」に「価値判断基準」たる背骨が必要なのかについて。
前のエントリで少し書いたけれど、私は元エントリの人とは違う意見を持っている。
 
背骨がないと表現者になれない、んじゃない。
表現ができない状況を指して、背骨がないと評されているだけだ。
順番が逆。
表現者になろうなんて考えなくていい。表現するべき内容があれば人は誰だっていつだって表現者になれる。
その表現するべき内容が見つからず、かつどうしても表現を行いたいなら、確かに「背骨を得る」ことが必要になるだろう。けど、それは既に表現のための表現であり、目的の据え方が最初から違うものになっている。
 
とっくの昔にあちこちで言われているだろうけれど、元エントリの事例は、ここが特殊であり、「表現者」という言葉に含めるには向いていない。
 
「描きたいものとか何もないけどマンガ家になりたいからマンガ描きたいんです」という若者がいたとして、果たしてこの若者がなりたいと思っているものは正しく「表現者」なのだろうかというと、わりと大きな疑問が残る。
で、「卒論書かないと卒業できないから書きます」というのは、構図としてはこれとまったく一緒。表現することは、まったく別の目的(マンガ家という看板なり卒業証書なり)のためにやらなければいけないらしい作業に過ぎない……というスタンスだ。
そして、そのスタンスに対して何かを言いたいなら、「表現者としての条件を満たしていない」みたいな遠回りな言い方をせずに、「あの卒論からは君自身の意見や意志が読み取れなかった」「やりたくないことをやらされたという不満しか感じなかった」「卒論のフォーマットには沿っているから咎めはしないが私はこれを研究者の発表として適切な態度だとは思わない」のような形で言ってしまったほうが伝わりやすいし、話にブレも生じないのではなかろうか。
 
ちなみに、「卒業のための義務という出発点であったにせよ、自分で書くことを選んだ卒論は自分の意志で行う表現ではないのか」というのは正論。そしてその正論が正しく伝わるとは限らないことについては、このエントリの後のほうで書く。
 

 
繋がっているようでいて別の話。
 
「表現」すること単体には、何の価値もない。
それはあくまで手段でしかない。
表現されたものを見たり聞いたりさせた相手、つまり受け取り手のところにまで何らかのメッセージを伝えることが、本来そこには目的としてあるはずだ。
 
表現者になること自体は簡単というか人生を送る上で不可避である。いくら「表現者になれない」とか「表現者はかくあるべき」とか言われたところで、表現をしなければいけない状況に追い込まれれば人は否応なしに表現者になってしまうわけで。
むしろその表現が効率的に行われたかとか表現によって誰かを幸福に出来たかなどにこそ注視するほうが前向きだろうなと。
 
そのためには、表現しようとする本人にも、もちろん自分の背骨の状態を把握しておくに越したことはないだろう。自分がどのような事柄についてどのように考える人間であるのか、知っておくことは表現をする上でとても大きな武器となる。
しかしそれよりも何よりも、「メッセージを受け取らせる側の背骨を知る」ことのほうが重要ではないだろうか?
 
相手が個人であれば、その個人の持つ背骨を。
相手が多数であれば、その多数が持っている共通のコンセンサスに依ったものを。
相手が不特定多数であるなら……その全員が共有しているコンセンサスを何とかして掴むか、もしくは「自分が望んでいる形でこの話を受け止めることが決してない人も読み手に混じる」ことを覚悟しておくしかない。
それが嫌なら、「表現」は実質上、自分一人だけに向けたものになるだろう。それが他人に思ったように伝わるかどうかは運任せ。大抵の場合は「なんで誰も理解してくれないんだろう」と首をひねるオチに行き着くことになる。表現というものは、常にコミュニケーションとワンセットだ。
 
落語をまったく聞いたことがない人に「今何時だい?」なんて言ったところで笑いはまったくとれないだろう。
私がこのエントリでここまで書いてきていることにしたって、読み手がある程度の年齢であることを勝手に想定している(来客の限られる場末のダイアリだからできることだが)ため、若い人が読んだら「目下をいじめて自己満足してるだけ」「年寄りが延々と自己正当化してる」ととられてしまう危険性がある。
論文だったら、その論文を読ませたい相手が内容を理解するように書くはずだ。「幼稚園児が読んでも分かります」なんて論文を書く学生はまずいないだろうし、いたとしたらそいつは色んな意味で道を踏み外している。ならばその「読ませたい相手」とは具体的にどのような条件を満たした相手なのかを(無自覚的にでも)把握しなければ、まともな論文は出来上がらないはずだ。
同じようなことが、大なり小なり、どのような会話、どのような表現の中ででも起きる。
 
論理を組み立て物事を考察し、正論という形で語ることができる人は、特に「正論は万人が共有できるはずの概念」であると思いこみやすく、受け取り手のことを忘れやすい。
実際には、「正論は万人に反論を許さない概念」でしかない。
だからそれを語る者は、往々にして、理解されるよりも先に「反論できないところから理屈をぶつけてくる卑怯な人」扱いをされるだろう。口げんかであれば常勝は間違いないだろうが、相手を打ち負かしたという精神的な勲章以外に得られるものは特にない。
もちろん、正論それ自体が悪いというわけではない。それは効果の強い薬であるからこそ、むやみに振るわず、使いどころを選ばないと毒になるという話。
 
どうせ表現するなら、ちゃんと相手に伝えたいじゃない。
だからそのために、目の前の人間が何を見て育ってきたのか、何を考えて暮らしているのか、などを把握する。面倒だし大変だし難しいけれど、そもそもコミュニケーションっていうのはそれを受け入れるところから始まるものだし。
 
まぁそんな感じのことを、元エントリの言葉も借りてまとめると、
「表現しようという意志とその内容を持っているなら、自分の背骨の有無など気にすることはない。だからわざわざ自分の背骨のことを意識しなくても体は動かせる。けれど、二人で何かするときには目の前の人間の背骨を意識したほうがうまくいくんじゃない?」
と、こんな感じになる。
なにせ背骨は、甲羅と違って、「その形作られ方が体の動きを大きく支配する」ものなのだし。それを知ることは、コミュニケーションの上で必ず大きな役に立つだろう。
 
なんでそんな話に飛んだのかというと、「背骨を持っている人間が行う表現」というのが、ただの声の大きな自己主張になってしまうというケースが少なからず存在するから。
背骨を持って自分の声を出せるようになるのはいいけれど、それで耳を閉ざすようになってしまっては色々ともったいないよねということで、蛇足と知りつつ付け加えてみた次第。
 

 
もうひとつ、また別の話。
この手の話をする時に、わりと誰もがコンセンサスを取り忘れてしまうポイントが幾つかある。そのうち一つが、「一人の人間の人格に対して責任を持つのは誰か」というもの。
 
常識的に考えると、「本人でしょ?」ということになる。
そしてまぁ、たぶんそれが、本来の正解だ。
しかし、いつでもどこでもその「常識的」な「正解」が通用するとは限らない。世の中には例外というものが存在し、そしてその例外はコミュニケーションに大きな問題を造りだす。
 
というのも、子供は自分の人格に責任をとれないから。
 
もう少し正確に言うと、形成中の人格(思春期前後)はそれ自体で独立するものではなく、むしろ環境の総体に近いものであるため、責任を求め先が「環境」に飛んでしまうから。
 
子供の人格形成を行っている環境といったら、親とか教師とか友人関係とか学校のシステムとか、場合によってはネットで触れているサイトや掲示板とか読んでいるマンガに遊んでいるゲームとか、まぁそういったものがすぐに挙げられるだろう。
だから、人格に責任を問われない子供が何かをやらかした時には、これらの中のひとつのパーツがスケープゴートとされ、「子供の人格をこのように形成した罪」で糾弾されたりする。
 
言い換えると、人格の不安定性という切り口から見た子供と大人の境界は「自分の人格に対して責任をとれるか」にあるということになる。
 
大学生というのは、この辺り、非常にややこしい位置にある年頃だ。充分に年をとっていて、口を回すだけの知識や自意識があり、つまり大人として振る舞う素地が出来ている。しかしそれでいて、「自分の人格に対して責任をとったことがあるか」という点に関しては、学生という身分上それが必ずしも要求されているとは限らないため、保証がされない。
つまり、彼らの中には、(むろん揶揄しているわけではないのだがそう誤解されるのを承知で言い切ると)「自覚のない子供」というのが大勢いるのだ。
 
なので、オジサンオバサンが大学生を相手にして話をする時には、そうでない年代の人間に接する時に比べても、特に注意が必要になる。
大人に対して子供扱いをするのが失礼であるのと同様、子供に対して大人の振るまいを要求するのは残酷な所行となるのだから。
 
その苦痛の向こうに大人への成長があるのだとしても、そんなもの、当の子供には知ったこっちゃない話である。
だから、「悪いことしてないのに何でこんな痛い目に遭わされてるの?」「あんたの教育が悪かっただけなのに何で俺が嫌な思いしなきゃいけないの?」という不満だけが生まれ、育っていく。
苦痛そのものは成長のために不可避なものであるにせよ、それは子供の側がもっと自覚的に受け入れられる場所でイニシエーションとして行ったほうが効率的だろう……と、話がまた逸れ始めているのでこの続きはまた別の機会に。
 
元エントリにおいて「背骨がない」と言われている学生は、そのままイコールではないにせよ、この「まだ自分の人格に責任がとれていない大学生」とかなり近い状況にある。
これはつまり、「背骨がない」者を相手に、大人に対する対応をとるというのは、暴力的な行為となりうる(少なくともそうとられる危険がある)ということだ。言葉をかけた当人としては「卒業する教え子に敬意を込めて大人として扱った」はずなのだろうけれど、誰もがそのことを正確に受け止めるとは限らない。力ある大人の一方的な暴力だと感じる人は少なからず存在するだろうし、そしてその指摘は軽視されるべきではない(一面においては事実なのだから)。
肝心の教え子当人に正しく伝わっていれば別にいいじゃんというのが本来あるべき結論なのだろうけれど、元エントリは「教え子当人には伝えられなかったことをネットで不特定多数の者に伝えた」という形であるため、むしろ否定的な意見を公募しているのに等しいやり方をしている。まぁ、個人的にはそこを含めて「すごいなぁ」と評価しているのだけども。
 
ちょっと蛇足。
この手の話を若い人相手にすると、わりと高確率で「自分の人格に責任をとるって具体的に何すりゃいいんだよ!」という反応が返ってくる。この時点で「甘えないで自分で考えろ」と言ってしまってもいいのだけれど、私はいちおうそういう場合、「自分がどのように変わっていきたいのかと、そのために具体的に何をしたらいいのかを自分自身で決めてみろ」と言うようにしている。
この時、他の人の意見や指示に従うのは構わないが、その時でも「そのやり方を信じる」という決断を自分で行い、そのことから生じる結果全てを自分で背負え……という指示も添えておく。「あんたの指示がおかしかったから失敗(あるいは成功)したんだ」ではなく、「その指示に従うことを決めたのは自分の意思だ」と考えられるようになれれば、まぁ、とりあえず一歩は前進したものと見ていいんじゃないかなと。
 

 
いつにも増して、とっちらかった文章になったなぁ……
あげくに予想以上の長さになってしまったので、切りが良いような気がしないでもないこの辺りで、とりあえず終わりにしておく。
 
先日ほんの少しだけ書いた、価値判断基準の持ち方と時代についての話なんかについては、やっぱり個人的に色々とヘンなことを考えているので、また後日に何か書き足すかも知れません。