『まどか☆マギカ』という、誤読されてなんぼのもんじゃい的なモノづくり

 
 
 
「俺が『まどか☆マギカ』だ!」――「真の作品」の姿を明らかにするための二次創作論
(LUNATIC PROPHET)
http://lunaticprophet.org/archives/4436
 
 
 
二次創作ってさ、「私はこの作品をこのように読んで、このように解釈して、このような着想を受けました」っていう意思表示の塊であって、それ以上のものじゃないはずだよね?
 
作品のテーマを読み取れていないとかそういうのは、読んだ側がそうと気づいたときに「ああこの人は読解力がない人なんだな」と受け取るだけのこと。
原作を読みもせずに書かれた二次創作なら、「キャラクター設定や既存の二次創作作品をどう受け取りどう解釈してどういう着想を受けたか」と「それらに触れても原作を読む気になれなかったという意思表示」がそこにあるだけ。
 
これらに、良い悪いはないよね。
そこまで堂々と恥をさらすのはどうなの、という意見ならわかる。しかしまあ、本人に自覚はないし周囲もそう気づいていないんだから、そっとしておいてやるのが大人の態度というものだろう。無知は罪ではない、むしろそれが当人たちの幸せの糧であるうちは歓迎すべきものなのだから。
 
自分の読み取り方を、自分の責任において自由に公開すればいい。そこにおいて作者は、作品を構成するとても重要な、しかしあくまでもひとつのファクターにすぎない。
それを神として崇めるのも、作品のあるべき形を作りきれなかった下手糞野郎としてこき下ろすのも、結局作者というファクターをどのように作品から読み取ったのかの表現、つまりは二次創作をする当人の自己表現にすぎない。それを、どっちが正しいとかどっちが進んでるとか、比較しようとすること自体が……なんというか、他者の話にかこつけた自己主張が好きなんだなあと感じる。
 



 
ちょっと余談。以前何人かのライトノベル作家シナリオライターに、二次創作というものについてどうとらえているのかを聞いたことがある。
それぞれに異なる意見が出てきたが、ほとんどに共通していたのは、「原作のテーマを理解するとかそういうのは一切期待してはならないということに二年目くらいに気づいた」だった。
 
つまり、最初のうちは、作品に込めたテーマが読者に届くことを期待しているし、届かないことの証明となる二次創作を見ることで失望していたのだ。
 
そして、それでもプロとして仕事を続けているうちに、理解を期待するということ自体、間違った行為であるという結論に至った。
それはなぜかといえば、客の多様性を否定することになるからなのだそうだ。
プロの仕事である以上、より多くの人間に商品を売ることを目指さなければならない。しかし人の数が増えるということは、それだけさまざまな人が受け入れられる作品にならなければならないということだ。特にキャラクターを中心に据えた作り方をされた作品などの場合、物語を誤読する人の比率は爆発的に増える。
それはもう、そういうものなのだという。
現実は現実として受け入れたうえで、それぞれの人がそれぞれに一番楽しめる形で作品を享受してくれているのだと前向きにとらえるのが一番だという。
 
作品は作者の頭の中にあるのでも、紙の上にあるのでもなく、紙と読者のちょうどまんなかの空間に漂うようにしてあるのが正しいのだ……なんてことを言った人もいた。
これには素直に、なるほどと思ったものだ。
 

 
それはそれとして。
 
ここからは、少なくとも『まどか☆マギカ』は、ほとんどすべての視聴者に誤読されることを前提に作られている作品じゃないのか、という話をしてみる。
 

 
今のところ放映されている範囲に関して言えば、エントロピーうんぬん言い出す寸前までのキュウべえの言葉は、ほとんど脚本担当である虚淵氏の台詞そのままだ。
そしてその中には、自分に都合のいい部分だけを読み取り、自分に都合のいい未来だけを受け入れるユーザー(この場合視聴者)への呆れと皮肉がかなりあからさまな形で詰め込まれている。
 
ただしこのメッセージは視聴者のもとへ届かない。
キュウべえが人間とは異なるメンタリティを持っていること自体を嫌悪し、自分たちの望む結果へと少女たちを導かなかったことをもって「敵」にカテゴライズし、その言葉のすべてを身勝手な虚言として切り捨てる。
もちろん、こうやって攻撃的にキュウべえを拒むということは、キュウべえを通してメッセージを伝えていた虚淵氏を拒むということにも通じる。
そして、おそらく虚淵氏は、そういう形で自分の言葉が全否定されるであろうことを、最初から計算に入れていた。だから、「都合のいい部分だけを読み取り、都合のいい未来だけを受け入れる者」であるまどかやほむらをメインのキャラクターとして設定し、彼女らに否定されるべき者としての位置にキュウべえを置いた。
この辺り、同じように作中に込めたメッセージを完全スルーされていた竜騎士07氏や奈須きのこ氏と同じ轍を踏まないようにと、あえて違うアプローチをしようとしているのが見える。
 
ともあれこのアプローチには、「好きなように誤読しろや!」という虚淵氏の胸を張った態度が見える。
そう考えると、少なくとも『まどか☆マギカ』に関して、テーマを読み取れてない二次創作がどうのというような話をすること自体、まったくの的外れだと思える。
 
彼は間違いなく作品のテーマを主張し、視聴者の目の前に突きつけた。
結果としてそれが歪められたり打ち捨てられたりしたとしても、届けるという仕事をやりとげた。
理解者や賛同者を得るというわかりやすい成果にはつながらなかったが、自身の意見が人々に対して体当たりしたらどうなるのかという結果を証明することができた。それが、全滅ライターだのなんだのと言われてきた彼の、『まどか☆マギカ』において目指したものであったのではないか。
 

 
理屈の上では完全な自業自得であるさやかの死、それを受け入れられない視聴者が作った「さやかが幸せになるストーリー」。
そういったものを見た虚淵氏が言う言葉は、決して「許さない」とか「お前ら俺の作品を何だと思ってやがる」ではないはずだ。
 

君たちユーザーは、いつもそうだ。
絶望にばかり共感して、自分に都合の悪いものに向き合おうとしない。
まったく、わけが分からないよ。

 
ボイスこそ加藤英美里嬢ではないだろうが、同じような抑揚をつけて、こんなことを呟いて──それでもユーザーを拒絶しようとはせず、新しい物語を作り始めているのだろう。
彼の描いたキュウべえというキャラクターがそうしていたように。
 
 
 

生存報告みたいなもの

 
この度の東北地方太平洋沖地震で被害を受けた方々に、謹んでお見舞いを申し上げます。
 



 
私は生きてます元気です。
 
震災後すぐに色々と書こうとはしていたのだけど、色んな人に失望することの多い日々だったため、結局手が止まってこんなに遅れてしまった。
まあ、どうせ生存報告的な意味ではまったく機能していないブログなのだ、大した問題はないだろうと信じる。
 

 
しかしあれだね。
「人間は非常時に本性が出る」というけど、あれは正確じゃないね。
「人間は、大声で本音を叫んでいいタイミングになると本性が出る」というのが正しい。非常時というのは、条件の一例に過ぎない。
 
非常時という大義名分を得て動きだす、攻撃衝動に煽られた民衆の群れ。
あまりにカリカチュアライズされたその様に、ムンクの絵画でも見ているかのような感覚をおぼえたよ。マジで。
 

ゲームは良いものなのか、それとも悪いものなのか

 
【【39】ソーシャルアプリのゲームについて】
http://www.nikkeibp.co.jp/article/nba/20100510/224700/?P=2
 

 考えてみれば、ほとんどのことに口を出さない僕の母も長時間のゲームだけは唯一反対していました。きっと、世の中の母親にとってゲームは大敵だということなのでしょう。
 
 僕は自分の子供がゲームばかりしていても、ゲームそのものが悪いとは思っていませんから、「おっ、やってるな」と思うだけです。もちろんゲーム以外にも面白いことはたくさんあるので、ゲームをしていても、どうせ飽きてそこに気がつくだろうと思っています。
 
 きっと「ゲームをするな」と怒る人というのは、そもそもゲームがよくないものだという認識を持っているのではないでしょうか。静かに部屋で読書をしていれば、怒られることはないでしょう。

要約すると「ゲームは悪いものじゃなく良い効果もあるはずなのに責められるのは偏見のせいだ」となる。
 



 
……いや、どうなんだろう、その理屈。
長時間のゲームと言ってる以上、短時間のゲームは別に悪だなんだと言われてないんだろうし。いくら益のあるものでもそれだけに耽溺することを良しとするような人はそうそういなくて当たり前。
 
「酒は体にいい側面もあるんだぜ」と言って毎日何本も酒瓶を開ける夫がいれば、たいていの奥さんは反対すると思うけれどな。他の家庭ってそうでもないのかな。
 
何事も、過ぎたるは及ばざるがごとし。
「絶対的に良いもの」と「絶対的に悪いもの」のふたつに無理矢理色分けせずに、節度を守ってさえいればいいだけの話のように見えるんだけどな、これ。
 

 
任天堂だったかの偉い人が、ゲームってのは基本的には悪いものだと言っていた気がする。時間を食う。資源を食う。教育的効果がどうこうなどというのは副次的なお話であって、それを第一の目的として作られているわけではない。ゲームをしているだけで生きていける人なんていない。
ならば、ゲームに関わる人間がするべきことは、「これこれこういう理由があるから悪くないよ」などという苦しい言い訳ではない。ゲームというものが宿命的に持った害を素直に認めた上で、じゃあその悪を補って余りあるだけの「良いこと」をゲームに盛り込んでいくことこそ、今必要とされている行動だろう……
と、そんな話だったように記憶している。
 
個人的に、この理屈には概ね賛同している。
ゲームをすることにはコストがかかるのだ。
そして、ゲームをすることが充分に有益である行為だとしても、それだけで人間が人間として生きていくのに充分な経験や資産を得ることはできないのだ。
これは、自分がゲーム好きな人間だからといって、いやむしろゲーム好きな人間だからこそ、目をそらしたりヘリクツでごまかしたりしてはいけないことではないか。
 

 
蛇足。
これまで私が会ってきた「ゲームばかりやって人生を送ってきた人間」達は、社会に出てきた時に高確率で何の役にも立たなかった。
特に、現状の自分を正当化するためのヘリクツのスキルばかりが達者で、どんなに失敗を積み重ねても焦燥感や向上心につながらず、何年現場にいても全く成長しないような人材が目立った。あくまで自分が見てきた人間に限っての狭い話だが、その傾向は確実にあった。
 
なので、長時間ゲームをしている人に対しては、「他のこともやったら?」とは言いたくなる。
「害だからやめろ」ではなく、「他のこともしろ」。ゲームを通して色々なことを学んで人間を豊かにしているんだー、などという理屈を本気で主張しているのなら、ゲーム以外のものを通して様々なものを学ぶことにも価値を見いだせるはずだからだ。
まあ実際にこれを言っても、言われた側の人間はおおむね「ケチをつけられた、不愉快だ」という形でしか受け取らないので何も変わらないのだが。
 
別にいいんだけどね、彼らの人生が彼らだけのものである限りは、好きなように満足して好きなように幸せになればいい。
ただ、他人の人生に干渉する立場にある時くらい、相手の言うことを理解する姿勢くらいは見せてもいいと思うんだけど。
 

暴力性という言葉の暴力性

 
【「なんの役に立つんですか?」の暴力性】
http://d.hatena.ne.jp/m0612/20100414/p1
 
アナウンサーの軽口に対して研究者サイドの目からの激昂、それに対して(いつも通り)はてな民が勝手なことをブックマークで言いまくる。
議論の中核は、「基礎研究が必要なものか否か」。
なんとも馬鹿馬鹿しい問いかけだ。
んなもん、0%か100%かで論じることなどできるはずがないに決まっているだろう。
  
基礎研究が基礎研究である段階では技術転用の見通しなど立っているはずがないし、ならばどこかの現場で必要とされるはずもない。
しかし後日には、その基礎研究が完成していれば、それを元にした技術が開発される可能性が生まれる。必要という言葉を適用するならば、この段階においてようやくだ。
 
現在形で必要性を語るならば、「一、二年後、あるいは十年後かもっと先の未来に新たな技術として生活に還元される可能性」を「現在の資金と時間で買う」ことについて論じなければならない。
そうやって初めて、「現在」手元にある資金や時間の価値を見据えて、「未来に」拓かれるかもしれない可能性の価値と同じ秤に乗せることができるようになるはずだ。
 
少なくともそういう形に持っていかなければ、そもそも秤の左右に同じ単位のものが乗らない。話は常にすれ違い、噛み合うことなく、互いの思想を全否定する以外の発言が出てこないはずだ。
 



 
とか長々書いておいてなんだが、ここでしたい話はそれではない。
本題にしたいのは、別の話。
 

 
というわけで、改めて本題。
「暴力」って言葉はとても便利だ。
 
それは常に悪であり、正しき者の敵が奮うものであり、そこに正当性が伴うことはありえず、ありとあらゆる理によって否定されるべきものだ。
少なくとも、あるものを「暴力」という言葉で言い表すというのはそういうことだ。
 
先日、東京都条例がらみで提出された署名などについて「大勢のポルノ漫画家達が声をあげ圧力をかけてきているが、あのような暴力には決して屈せずに正義を貫いていきたい」というような実に立派な志に支えられたコメントが出ていたと思う。
これが、「暴力」という言葉の使い方だ。
あいつらは悪だから言うことの全てを無視していいし、それに抗う自分たちには完璧な正当性が約束されるよという無敵の十字架。
 
この言葉を頭に用いて人々に訴えかけようとした時点で、私はこのエントリを「煽動」だと感じる。
つまり、深く考えずに賛同してくれる仲間を増やすための文章であり、反対する者を分からず屋として排斥するための文章であり、総じて何か新しいことを読み手に伝えたいという目的を持たない文章だ。
 
それがエントリを書いた方の意図に正しく沿ったものであるかは分からない。
が、使われた言葉はしっかりと機能した。
このエントリのブックマークはあっさり煽動された人々と当然のように反発した人々とがちょっとした政争を起こしている。
 
こんなのはてなじゃ日常の出来事だ? ああ、確かにその通りだ。
しかしそれすら、元エントリは科学者サイドからの正しい訴えかけなどではなく、そこらの増田による社会への愚痴と同じようなものとしてはてなに呑み込まれたのだということだけの話である。
 

 
大声で自分の言いたいことを叫んでいるだけじゃ、誰も説得できはしない。
そうだそうだと言ってくれるのは、元から同じようなことを言いたがっていた人だけだ。それは説得ではない。
二人以上で声を併せればより広くにより強い声を届けることはできるだろうが、味方は増えない。増えたように見える人数は、もともと味方としてそこにいたものだけだ。
 
もっとさ、他の人も取り込めるような言葉を使おうよ。
基礎研究の重要さの分からない奴は敵、なんてアホなこと言ってないで、その重要さを教えてやれよ。お互いの知識の範囲をイーブンに近づけて、その上で話をしようよ。
 
それをせずに「世の中は分かってくれない」なんて言ったところで、そりゃあ当の本人たち以外にとってはただのワガママだ。
 

 
なんだろうな、研究者・技術者・芸術家などという人種は特に、周囲の不理解を当然のものとして諦めやすい傾向がある気がする。
だからなのか、自分の都合をいきなり相手にぶつけて、受け入れるか受け入れないか、0か1かの選択肢をいきなり迫ったりすることも多い。
そりゃあキモがられるってもんだ。
わけわかんないで反応できずにいるだけで「暴力だ」と被害者面されて敵にされるんだし、たまったもんでもないだろう。
 
あとオタクもな。
反応に困る周囲に対してただひたすら自分の権利を訴えるだけの姿とか、そりゃあキモがられて当然だし排斥したいと思うよ。いちおうオタク趣味というものにそれなりの量触れて予備知識のある私ですらそう感じるのだから、そうでない人たちがどう感じているのかなど、もう想像もしたくない。
 

 
総じて、このへんの対話の不足を、どうにももったいない話だよなと思うのだ。
 

『AV女優「蒼井そら」TwitterのID流出、中国人も裏技で登録』について

 
【AV女優「蒼井そら」TwitterのID流出、中国人も裏技で登録】
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0413&f=national_0413_021.shtml
 
これ……中国からしてみれば、日本人が、違法手段で規制をくぐりぬけた犯罪者たちの崇拝対象になったってことだよね。
 
しかも、

蒼井さんは、フォロワーの突然の増加に驚くとともに、翻訳ソフトを使い「ありがとう、中国にいるファンの皆様」などと書き込んだ。

 
と、どうやら当の本人はその「犯罪者」たちに礼を述べ、肯定する意思を見せた。
犯罪幇助とまではいかなくても、犯罪を肯定しているという時点で大問題の行動だよね。あくまで中国からしてみれば。
 
もちろんこれは、この女優に責のあることではない。
誰が悪いと言われれば、そりゃあ中国の見通しの甘さが悪い。
 
そもそもネット規制という現実味のない政策をとった時点で割れ窓現象が起きるのはわかりきっていた。本当にそれを法として成立させるには、最低でも違反即投獄くらいの恐怖政治を敷かないことにはどうしようもなかっただろう。それをしなかった以上、「みんな守らない有形無実の法」が出来上がってしまうのは当然の結果だ。
 



 
しかし、悪法も法であることに違いない。
 
そして、破って問題のない法などない。
法としてそこにあるものは守られるか、守られているという建前を持つか、守らせようとしているという姿勢を保つかをしなければならない。そうしなければ社会というものは保てない。
 
そうなると、次に起きるかもしれないひとつの可能性が浮き上がってくる。
 

 
「中国の議会で、法政策の話の中にAV女優の話が出る」
 
「そのことを日本政府が『憂慮』する」
 
「規制問題が持ち上がる」
 
表現の自由やら猥褻物取り締まりやらといった、見当違いの話題でみんな盛り上がって、本来の議題を忘れる」
 
「日本の治安が悪くなる(そうなったと報道される)」
 
「そのころ中国の若者たちは、遠い島国で起きている事件のことなど気にもせずにネットを駆けめぐっている」
 

 
あるいは中国なら、直接日本政府に苦言を投げてくるくらいのことはやるかもしれない。
まあその場合も起きることは完全に一緒。外部の援助をもらった(と思って)勢いづいた規制派VS意地になった反対派の血で血を洗う戦いの末、まるで日本は世界に名だたる性犯罪国家であるかのようなデータだけが揃っていくわけだ。
内政干渉? このへんの国のやりとりに関して言えば、それは死語ですよ。あまりに日常的すぎて、今さら誰も気にしませんって。
 



 
もちろんこれは、邪推に邪推を重ねた、ただの妄想だ。
総じて馬鹿馬鹿しいし、支離滅裂だし、非現実的な話だ。
 
だというのに、「こんなのありえないだろ」と笑い飛ばすことのできない現代日本が、少し悲しい。
 

『そんな死人の写真がとりたいのだろうか』について

 
【そんな死人の写真がとりたいのだろうか...携帯カメラが泣いている】
http://konozama.jp/amazon_devil/2010/04/post-118.html
 
そりゃあ、撮りたいんじゃないかな。
そして同時に、ヒーローになりたいんだろう。
 
いや、真面目な話。
 



 
空気など読まず、自分にリスクのないところから不作法に事件に首をつっこむのが昨今のヒーロー像のひとつとしてある。
 
「外様だけど無関係な人間ではありません」という顔が出来れば最高。
赤の他人ではないから周りはそれなりに注目してくれるし、かといって何をどう喋ったところで当事者としての責任が自分のところに降りかかってくることはないし。相手がそれによってどんな気分になろうと、外様である自分に対して敵対的なリアクションをとれる立場ではないだろうし。
いいことづくめの、いわゆる無敵モード。
 
そして、vipなりmixiなりの中の特定のコミュニティは、そういうヒーローを暖かく迎えてくれる。
なぜなら彼らはみんな、いつかは自分がそういうヒーローになりたいと思っているから。
 
ここ数年だとヤマカンとか、かなり彼らのヒーローだよね。
その前だとホリエモンとかがその位置にいたんだけど。
 

 
別にこれは昨今に限った風潮ではなくて、野次馬による不謹慎な楽しみというのは大昔から人類について回ったものだ。
近年になって何か事情が変わったとしたら、それこそホリエモンらが体を張って提示してきた、「空気を読むものは負け組」という考え方の浸透だろう。
 
空気とは、この場合、道徳だ。
 
事件現場に居合わせた者はたいてい、野次馬をやりたくとも、周囲の冷たい視線に耐えかねてその場を離れる。
それが普通だ。
 
だが空気を読まないことを是とする考え方を持つ者は、その冷たい視線を克服することができてしまう。
だいたい、自分が本来属するコミュニティは、後になって自分を受け入れてくれるのだ。周囲の不理解をはねのけて写真を撮った自分を讃えてくれるのだ。それを理解していてなぜ、今そこにある冷たい視線などに屈する必要があるのか。
 
あるいは、最近になって出てきた市民報道の考え方だ。
あれを都合よく解釈することによって芽生える「報道に関わる者としての使命感」は、冷たい視線によって呼び起こされる後ろめたさを、実に心地よく麻酔してくれることだろう。
 
抑止力を失った欲望は暴走する。
事件現場におけるカメラというのは、そういった類のものだと自分は思っている。
 

「彼らを障害者扱いして表現の権利も発言権もないことにしよう」

 
【第28期東京都青少年問題協議会議事録】
http://www.seisyounen-chian.metro.tokyo.jp/seisyounen/09_28ki_menu.html
 
わははははははは。
これは良いジョーク。ただし相当にブラックだけど。
 



 
主張しようとしている内容自体はある意味立派なものなのかもしれないけど、とにかく言動があちこち、普通におかしい。
 
「もう理屈とか法根拠とかどうでもいいからとにかく規制しようよ」なんて発言が何のオブラートにもくるまず何度となく出てくる辺り、本当に自分の正義を信じて疑っていないんだなーということが強く伝わってくる。
 
要約するとこのエントリのタイトルの通りになったりするような発言がちょこちょこ出現していたりもするのだけど、もちろん反社会的な嗜好を持っている程度のことで障害者認定してくれるほど精神医学は彼らに都合よく出来てはいないし(抑制しきれず周囲に明確な被害を出して初めて可能性が検討されるものだったはずだ)、仮に障害者として認められたとしてもそれを理由に全ての発言権を奪うようなこともできない。いやむしろ、できるはずだからやってしまおうという発言のほうの正気が疑われる。
 
例によってこの規制の正否自体にはさほどの関心はないのだけれど、これらの言動の果てに決まるかもしれない法とやらには興味津々だ。ただしもちろん、悪い意味で。

 



 
いやー、この国どこにいくんだろうなあ、ほんと。