『そんな死人の写真がとりたいのだろうか』について

 
【そんな死人の写真がとりたいのだろうか...携帯カメラが泣いている】
http://konozama.jp/amazon_devil/2010/04/post-118.html
 
そりゃあ、撮りたいんじゃないかな。
そして同時に、ヒーローになりたいんだろう。
 
いや、真面目な話。
 



 
空気など読まず、自分にリスクのないところから不作法に事件に首をつっこむのが昨今のヒーロー像のひとつとしてある。
 
「外様だけど無関係な人間ではありません」という顔が出来れば最高。
赤の他人ではないから周りはそれなりに注目してくれるし、かといって何をどう喋ったところで当事者としての責任が自分のところに降りかかってくることはないし。相手がそれによってどんな気分になろうと、外様である自分に対して敵対的なリアクションをとれる立場ではないだろうし。
いいことづくめの、いわゆる無敵モード。
 
そして、vipなりmixiなりの中の特定のコミュニティは、そういうヒーローを暖かく迎えてくれる。
なぜなら彼らはみんな、いつかは自分がそういうヒーローになりたいと思っているから。
 
ここ数年だとヤマカンとか、かなり彼らのヒーローだよね。
その前だとホリエモンとかがその位置にいたんだけど。
 

 
別にこれは昨今に限った風潮ではなくて、野次馬による不謹慎な楽しみというのは大昔から人類について回ったものだ。
近年になって何か事情が変わったとしたら、それこそホリエモンらが体を張って提示してきた、「空気を読むものは負け組」という考え方の浸透だろう。
 
空気とは、この場合、道徳だ。
 
事件現場に居合わせた者はたいてい、野次馬をやりたくとも、周囲の冷たい視線に耐えかねてその場を離れる。
それが普通だ。
 
だが空気を読まないことを是とする考え方を持つ者は、その冷たい視線を克服することができてしまう。
だいたい、自分が本来属するコミュニティは、後になって自分を受け入れてくれるのだ。周囲の不理解をはねのけて写真を撮った自分を讃えてくれるのだ。それを理解していてなぜ、今そこにある冷たい視線などに屈する必要があるのか。
 
あるいは、最近になって出てきた市民報道の考え方だ。
あれを都合よく解釈することによって芽生える「報道に関わる者としての使命感」は、冷たい視線によって呼び起こされる後ろめたさを、実に心地よく麻酔してくれることだろう。
 
抑止力を失った欲望は暴走する。
事件現場におけるカメラというのは、そういった類のものだと自分は思っている。