「目的」を変えれば、「手段」は価値を変える

 
【ウェブ関係で仕事をしていて知らないと恥ずかしい日本人100】
http://pub.studio15.jp/2008/04/13/japanese-in-the-web/
 
はてブでホットエントリー入りするためにするべき、たった2つの簡単なこと】
http://pub.studio15.jp/2008/04/13/hateb-hotentr/
 
不特定かつ多数の人間に不快な思いをさせることを大前提として注目を集め、その事実をもって成功とするやり方。
 
「これほど過激なタイトルをつけているのだから、伝えたい意見があってエントリを書いたのだろう」と先入観を持って訪れた読み手は、完全に裏切られることになる。
 
本来ならばダイアリにとって致命傷となりうる話だが、ここでは
「より多くのブックマークをつけられること」
「より多くのアクセスを得ること」
をエントリを書く目的だとして定義しているため、その裏切りは書き手側へのリスクを何ひとつとして生まない。ひとつの目的を達成するために純化した技術を用いた、完璧な成功モデルとして成立している。
 
「誰かに伝えたいメッセージがある」
「読んでくれた人に有益な何かを残したい」
言語化しておきたいアイデアがある」
などの、本来ブログを書こうとする者にとって標準であろう目的を完全に捨て去ることで、成功への新たなアプローチ手段を生み出しているのだ。
 
なお、
「ネタでした」
の一言で、すべての来訪者は、自分の中に生じた感情のすべての責任を、自身で負わされることとなる。怒りだろうが苛立ちだろうが、「ネタを本気にとるやつはネットに向いてない(怒りや苛立ちを覚える人間は最初から相手にするつもりはないという宣言)」の一言の前には無力となる。
この意見に対しては、「ネットに向いている」と認められた(あるいは認められたい)人々が次々に賛同者として名乗り出て、その逆である人間は沈黙する。そして、場の雰囲気と多数決が、口をはさむことの許されない絶対のルールにまで押し上げてくれることになる。
その意味でも、このエントリの作り方は完璧だ。
 
はてなは、「たこつぼ」なのだ。それが大前提だ。
その中にほかの小魚が迷い込んできたならば、何が起ころうと、その小魚の責任となるのだから。
 



 
同じような論調の意見を、先日の「実名でブログを書かなければビビリ」のエントリの周辺でも見かけた。いわく、炎上騒ぎが起きても、アクセス数が増えるんだからありがたいだけじゃん、とのことだった。
 
「アクセスが増える」ことだけが目的なのであれば、確かに、実名ブログで問題発言を繰り返すことには、大きな価値がある。
 

 
ところで、上の話とはまったく関係ないが、ひとつ呟いてみたい。
 
たまにTVで、
「有名になりたくてやった」
「こんなに多くの人に迷惑をかけるとは思わなかった」
「軽い冗談のつもりだった、こんな騒ぎにするつもりはなかった」
とか言ってレポーターに「何考えてんでしょうね」などと突っ込まれてる若者を見る。
 
以上、上の話とはまったく関係のない呟きでした。言いたいことは伝わったよね?