どこで思考を止めるのか、それが問題だ。

 
【「考えない勇気」を持てば、頭がスッキリ!】
http://d.hatena.ne.jp/kokorosha/20080402/p1
 



 
まず、
 
「考えている自分」
「考えているというポーズをとれている自分」
「考えている人間なのだと周りにアピールできる自分」
 
これらを維持できるという「トク」のために考えている人たちにとっては、このエントリで語られているような考え方は意味を持たない。
せいぜい、「『思考停止は格好悪い』という思考停止」によって、頭から話を否定されるのが関の山だろうなと思える。
 

 
で。それとは別に。
 
人間の思考力には限界がある。ゆえに、精神を安定させるためにも、適度の思考停止を必要とする。その考え方は正しい。間違いない。
しかし同時に、そこには問題もある。「どこで」思考を止めるかについて、上記エントリの中では言及されていないのだ。
 
思考停止のポイントについて指標を与えられていない場合、
大抵の人間は、自分にとって都合の良い場所で立ち止まろうとする。ゆえに、個人として思考停止を行っている人間というものは、往々にして独善的であり、協調性に欠ける言動(自分だけの結論の内側に立ち止まっているのだから当然だ)が目立つようになる。
 
自分の結論を先に定めて、それにあわせた、無駄のない思考を行う。
上記のエントリで勧めているのは、つまりそういうことだ。
思考の量を自分自身にあわせて極限まで減らしているということは、その思考過程は自分自身にしか理解も納得もできないものになるということだ。それを「合理的」とみなす(と先に結論として設定している)ことで、そこには何も問題はないとする。
普通に考えると、これは大きな問題であるように思える。
もっとも、上記エントリ中の話ではその辺りについて納得済みのようなので、もう後は本人の気の持ちようの問題でしかないのだろうけれど……
 
実際にその生き方をしてしまうと、そう遠くないうちに、「私には理解者がいない」「誰も私の話を聞いてくれない」なんて悩みを抱えることになるんじゃないかなぁ、などと考えてしまうのだ。
 

 
ここから余談。
 
誰もが前述のように勝手な場所で思考停止を始めては、誰もが孤独を感じてストレスをためてしまい、社会が成り立たない。
だから、社会を維持するために「みんなで同じ場所で思考を止めよう」という思想が生まれ、そこから宗教という概念が発生した。
 
だからこそ、宗教から発生する問題というものは、常に相互の不理解を前提のようにして抱えている。
そしてまた、「宗教は危険で格好悪いもの」という認識が広まった現在、人は、その宗教によって予防されていた様々な精神的脅威に対する抵抗力を一気に失ってしまっている。現代人の心の病がどうのこうのと言われているものの大半は、つまりそういうことだろう。