命題「勇気がない」「勇気の問題ではない」

 
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080316/1205641886
コメントやブックマークのやりとりも含めて興味を持ったので、ちょっと言及。
安易に全肯定する気も全否定する気もない、と、予めスタンスを明記しておく。
 



 

前提1)
 目の前に問題がある。
 
前提2)
 その問題は解決できていない(あるいは、されていない)ものである。
 
前提3)
 なんらかの形で前提2の責任の所在を確かめなければ落ち着かない。

 
と、これが上のURLのリンク先で論じられている「勇気がないように思えるエントリーを書いている人々」の基本構造であると定義する。
すると、その後に発生する現象(実際のエントリーやその中の発言)は、ざっと以下のように分類できる。
 

パターンA)
自分ではない場所に責任を求める。
  パターンA−1)
   ──自分と直接関わりの薄いところに責任を投げる
     ※政治、社会、会社の方針など
  パターンA−2)
   ──自分と直接関わりの強いところに責任を求める
     ※知人、環境、直接の上司など

パターンB)
自分自身の中に責任を求める。
  パターンB−1)
   ──自分の能力による問題だと結論する
     ※責任こそ自分にあるが、そもそもその結果は不可避だった
  パターンB−2)
   ──自分の性格・決断ミスによる問題だと結論する
     ※解決できたはずの問題が、自分のせいで解決できなかった

 
もちろんこれらの間に単純な優劣の関係はないし、正しい間違っているという思考停止的な結論も導きようがない。
強いてそこに序列を作ろうとするならば、それこそ「かっこいい」か「ださい」か、その辺りの完全に主観的な価値基準を導入するしかないだろう。
 
ポイントは、実際の原因の所在と、責任を求める先とは、一致するとは限らないというところにある。
というより、ひとつの問題に対して、原因が明確な形で一箇所に集中しているなどということのほうが稀だろう。物事はいつでも複雑で曖昧模糊だ。そんな曖昧なものを人は受け入れられない。だから責任の所在などという形で、明確に単純化された図式の中に問題を組み入れようとする。
その目的は、精神の安定だ。
決して、真実の追究などではない。
ゆえにそこには、問題を抱えた当人の嗜好や価値基準が大きく関わってくる。ひとつの物事について、人のせいにするのも自分のせいにするのも、全ては自分自身を納得させるための一手順でしかない。本当に悪いのは誰なのかなどという事実には、直接的な意味はまったくないのだ(自分を納得させやすいという間接的な意味はある)。
 
で。
 
リンク先のエントリで述べられていることは、最終的には「パターンB−2を選ぶことから怯えて逃げるのって『ダセぇ』よね」ということだ。つまり主眼となっているのは自分の心の持ち方ひとつのみであり、実際の問題の原因の所在がどこであろうと成立する話であるはずだ。
 
そのはず、だと思ったのだ、が。
 



 
このエントリ、どうにも全体を通して見ると、話の軸がぶれている
おそらく書かれた本人も、持論の流れを把握しきれていなかったのだろう。
 
「パターンAとかB−1ばかりに逃げてるけど、問題の原因はB−2なんじゃないの?」
エントリ前半は、完全にこのような論旨になっている。つまり、問題解決のための直接的な手段として、問題の原因がB−2にあるという前提を創ってからことにあたることを推奨している。
これはさすがにかなり乱暴な極論だ。
そして、典型的なポジティブシンキング信者の思考停止論法そのものだ。
 
コメントやブックマークにも、エントリのこの箇所に対して噛みつく意見は多い。
それらのほとんどは同レベルに乱暴な極論だが、たまに筋の通った意見も散見される。
 
前述の通り、エントリ後半では、実際の問題の原因の所在がどこであろうと構わないような話の流れになっている。最終的にこのような結論に至っている以上、前半の乱暴な理論展開は意図されないノイズ、guri_2氏のミスなのだろうと私は読み取った。
 

 
さて、本題に戻って。
 
この「格好いい」「ダセぇ」という価値判断のすべては、当人の主観、自分で自分の行動を格好いいと思えるかどうかにかかっている。
 
「責任をどこかに押しつける」よりも「自分で責任をとる」ほうが格好いいとされるのは当たり前だ。ゆえに、パターンAの行動よりも、パターンBの行動のほうが、原則として美しいものとされるだろう。
だが、これをルールとして規定しようとすると、また別の問題が持ち上がる。パターンAに「怯えることなく社会悪を糾弾する」格好よさを見いだす価値基準だって存在するだろう。もちろん、全ての責任を背負ったという自分の行動の美しさを麻酔とする逃避は、人によっては「極めて格好悪い」行動となるに違いない。
 
さらに言うなら。
問題の責任所在の振り先として積極的にB−2を選ぼうとする姿勢とは、つまり自分を「やればできるこ」と信じようとするということに繋がりかねない。
そのこと自体は悪いことでも何でもない。むしろ、成功の可能性を信じてことに当たるのは、必須と言っていいほどに重要なことだ。
が、少しでも方向を誤れば「やればできるんだ、ただやってないだけなんだ」という典型的に格好悪い言い訳に流れかねないという事実もまた、厳然としてそこにある。
その言い訳の可能性を感じさせるケースであれば、B−2を選ぼうとする姿勢は、相当に「ダセぇ」ものになりかねない。
 
かくのごとく、本当に何もかもがケースバイケースなため、もとより議論も何も成立する余地はなく、まともに語れることがあるとしたら自分自身の好みについてだけ。
だというのに、こうも多くのコメントやブックマークがついて、その中でそれぞれが勝手に自分の価値観を並べ立てているというのは、結局その誰もが「議論の成立の余地はない」ということに気付いてないということなのかねぇと思ったり。
これは、guri_2氏が、友人の価値観に同化した自分の例だけを述べてエントリを締めたということが元凶。一般論に帰納することを前提として述べるエピソードでそれをやってしまえば、それは宗教の伝道とまったく同じ。「これはこの世界を支配する唯一の真理なのです」という態度だととられて文句は言えない。
 

 
まぁそんな話なので、最後に私自身の価値基準について言及することで、このエントリ自体の結論に換えようと思う。
 
とりあえず、「やればできるかもしれないんだから、やってみることを検討してみようぜ!」という姿勢が、私の考える限り、もっとも「格好よく」て「ダサくない」ものだ。
 
会社や上司に不満があるなら、自分で会社を立ち上げることを真剣に検討し、それと現状維持の二つの道をまじめに天秤にかける。その後で、どちらかの道を、自分自身の判断で選ぶ。
そこまでやって初めて、人は自分自身の判断に対して責任を負うことができるようになるはずだ。
 
もちろん、「やればできるから、まずはやってみようぜ!」だと、無鉄砲な行動を煽るだけの無責任な文句にしかならない。そういうポジティブシンキング全肯定主義は、要するにただの思考停止であるわけで、私の基準ではあまり格好いい行いとは言えない。
 
が、「検討してみようぜ」からは、複数のプランを並立させて検討し、より良い結果を期待できるものを選択しようという生産的な姿勢が伺える。
こういう考え方は好きだし、素直に「格好いい」とも思ったりもするのだ。
 
 

 
 
……うーん。
いつにもまして、とりとめないなぁ。
 
本当はA−1とA−2の民俗学的見地からの比較とかそういうこともやって、ごちゃごちゃめんどくさい話に持っていこうかとも思っていたけれど、それこそ理屈のための理屈になってしまいそうな気がしたので取りやめ。
 
 
 
 

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【追記】
このエントリを書いてから、当のエントリについているブックマークを改めて流し読んだのだけど、そのほとんどが「勇気万能論者」と「そのアンチ」との自説肯定・相互否定で埋められていた。
あれ、おかしいな。
確か元エントリは、結論としてはそんな話じゃなかったはずなのに。
もしかして元エントリを誤読しているのは私なのだろうか。私がノイズだと思っていたところこそが本質だったのだろうか。世の中の全てに対して勇気で解決することを提案している、ポジティブシンキング主義者の啓蒙エントリとして読むのが正しかったのだろうか。
いろいろと自信がなくなってきた。